河野氏と【通】の苗字について

河野氏(こうのし / かわのし)は、伊予国(愛媛県)の豪族で、第22代当主河野通清以降は、「通」を通字とする。
明治維新以降活躍した伊藤博文氏、河野一郎氏、河野洋平氏、平岡氏、黒川通軌【陸軍中将後東宮武官長・貴族院議員】は河野氏の末裔といわれる。

越智兄弟が699年に都落ちする際、瀬戸内海の備中沖で飲料水が無くなり、玉興が弓を海中に差し込み潮を掻き分けた所、真水が湧いてきて渇を癒す事ができた。これが水島の地名の由来となる。「水」「可」「予」「里」の4字を組み合わせて「河野」の苗字とした。

治承・寿永の乱(源平合戦)で源氏に味方したことで鎌倉幕府の御家人となり西国の部将として大きな力をつけた。室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した
一時河野家の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれた。村上水軍は、形式的には河野氏の配下であったが、独自活動もした。

平安時代の末期は、平清盛率いる伊勢平氏の傘下にあったが、その後、源平合戦においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝に協力して西国の伊勢平氏勢力と戦った。鎌倉時代になり承久の乱のとき、反幕府側の後鳥羽上皇に味方したために一時的に衰退したが、元寇のときに勇将・河野通有が活躍してその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げた。

河野通盛は足利尊氏に従い伊予守護職を手にした。

伊予の豪族河野氏が率いた水軍。屋島・壇ノ浦の戦いで源義経に味方して戦い活躍し、鎌倉幕府の樹立に貢献した。

源氏に従って軍功をたて,南北朝動乱の際も活躍したが,次第に弱体化し,豊臣秀吉の四国征伐で滅亡。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏した。通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。

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